LOGIN警察官が手術室を見る。その先を聞けず、私も閉じた扉へ向き直った。
蓮と彩花さんが病院へ着いた。倉庫の青い箱は全て保全されたという。彩花さんは続けかけた報告をやめ、私の隣へ座った。「澪ちゃん」蓮に呼ばれた途端、「別々に行かなければ」と口から漏れた。蓮は唇を結び、しばらくして「今は、ここで待とう」とだけ言った。 手術中の赤い表示は消えない。 透明な袋の中で、路線図の青い線に血が滲んでいた。あとで会おう、と言った口元を思い出す。まだ今日のことなのに、返事をしそびれた言葉ばかりが浮かんでくる。扉が開くたびに腰を浮かせ、違うと分かってからも、しばらく座れなかった。 手術は三時間続いた。 頭部の打撲と肋骨骨折。命に別状はないと聞き、「本当に」と聞き返した。医師がもう一度頷く。お礼を言おうとして声が裏返り、彩花さんの袖を掴んだ。しばらく、それを離せなかった。 鷹宮家の家族、警察、相沢、秘書。人が増えるたび、病院の床へ新しい靴音が重なる。紗英は壁際に立ち、父親からの着信を一つずつ切っていた。 夜明け警察官が手術室を見る。その先を聞けず、私も閉じた扉へ向き直った。 蓮と彩花さんが病院へ着いた。倉庫の青い箱は全て保全されたという。彩花さんは続けかけた報告をやめ、私の隣へ座った。「澪ちゃん」蓮に呼ばれた途端、「別々に行かなければ」と口から漏れた。蓮は唇を結び、しばらくして「今は、ここで待とう」とだけ言った。 手術中の赤い表示は消えない。 透明な袋の中で、路線図の青い線に血が滲んでいた。あとで会おう、と言った口元を思い出す。まだ今日のことなのに、返事をしそびれた言葉ばかりが浮かんでくる。扉が開くたびに腰を浮かせ、違うと分かってからも、しばらく座れなかった。 手術は三時間続いた。 頭部の打撲と肋骨骨折。命に別状はないと聞き、「本当に」と聞き返した。医師がもう一度頷く。お礼を言おうとして声が裏返り、彩花さんの袖を掴んだ。しばらく、それを離せなかった。 鷹宮家の家族、警察、相沢、秘書。人が増えるたび、病院の床へ新しい靴音が重なる。紗英は壁際に立ち、父親からの着信を一つずつ切っていた。 夜明け前、征臣が目を覚ました。 医師の許可を得て病室へ入る。 白いカーテンの向こうから、薬の匂いがした。母のいた部屋とは、窓の向きもベッドの高さも違う。そう確かめながら歩いているのに、息を吸うたび胸の奥が狭くなった。 征臣は父親の名も、会社名も、自分の役職も答えられた。 事故直前に証拠を運んでいたことは覚えていない。 日付を聞かれ、彼が答えた年は一年前だった。医師が今の日付を伝えると、征臣は笑いかけて、やめた。「一年? そんなはずは」父親の顔を見ても、否定は返らなかった。「直近の記憶に欠落があります。逆行性健忘の可能性がありますが、範囲はまだ断定できません」 医師の質問と予定表を照らすと、少なくとも私と再会した頃からの時間が抜けている。 契約婚約。白鳥家を出た夜。母の事件。食堂のオムライス。 昨日まで二人で話せたことを、これから私が一つずつ説明するのだろうか。征臣がこちらを向くのを待った。目が合えば、何か変わる気がした。 医師が私を示す。「この方は分かりますか」
二度目の発信で、通話が繋がった。 雑音の向こうから、征臣の声がする。「澪?」「車を止めてください。今すぐ」「何があった」「紗英さんが、その車は榊原の整備工場から出たと――」 言い終える前に、電話の向こうで声が上がった。 ブレーキが利かない。 征臣が何かを指示する。タイヤの軋む音に、激しい雑音が重なった。「征臣さん」 返事がない。 金属が長く擦れ、最後に大きな衝突音がした。 通話が切れた。それでも耳から離せず、「征臣さん」と呼んだ。もう一度呼んで、ようやく暗くなった画面を見る。かけ直そうとした指が、同じところを二度滑った。 同乗していた警備担当が位置情報を開いた。「ここから七分です」 運転手は返事をせず、すぐ進路を変えた。 七分。さっきまで声が聞こえていた人のところへ、七分もかかる。発信するたびに端末を耳へ押しつけ、応答のない画面をまた見た。地図の点は動かない。「お願い、出て」と呟いた声を、口元に当てた手が吸い込んだ。 青い路線図と同じ海岸道路を走る。高城和臣の事故現場を越えた先で、黒い車が山側のガードレールへ突っ込んでいた。 前部は潰れ、助手席の窓が割れている。 事故車の警備担当は外へ出ていた。額から血を流しながら、後部座席を指す。 征臣はシートベルトをしたまま、目を閉じていた。 救急隊員が車内へ入り、呼吸と脈を確認する。「呼びかけには反応があります。下がってください」 近づこうとした身体を、警備担当に支えられた。下がらなければ邪魔になる。分かっているのに、車の中から目を離せなかった。「征臣さん」 まぶたがわずかに動いた。「澪」 掠れた声だった。私を呼んでくれた。そのことだけで、張りつめていた膝から力が抜けそうになった。「はい、澪です。ここにいます」車のドアに手をつき、顔を覗き込む。もう一度呼んでほしかった。けれど征臣のまぶたは閉じたまま、私の声にも動かなかった。 救急車へ移す時、征臣の内ポケットから青い路線図が落ち
着信が切れたあと、かけ直しても繋がらなかった。 彩花さんが共有端末を開く。征臣の車は警察本部へ向かう途中、海岸道路の手前で止まっていた。「戻る」 蓮が運転手へ言う。「待ってください」 自分の声が先に出て、胸の内側が遅れて揺れた。 今すぐ戻りたい。膝の上の路線図を掴み、征臣と別れた方角を振り返った。倉庫へ行くと約束したばかりなのに、もう引き返すことしか考えられなかった。まず、無事かどうかだけでも。「事故かもしれないんだぞ」「警備へ確認します」 端末を持つ指が震え、一度番号を押し直した。 返答はすぐに来た。車両トラブルで停車。警備担当が別車を手配中。負傷者なし。 息を吐いた途端、胸が痛んだ。「港へ行きます」 蓮は何か言いたそうに私を見たが、進路を変えなかった。 倉庫の裏口には、大型車が横づけされていた。荷台には〈廃棄文書〉。榊原財団の名はどこにもない。 警察の令状は、まだ届いていなかった。 彩花さんが搬出責任者を尋ねる。運転手は答えず、荷台の扉へ手をかける。 青い路線図の複製を示した。「ここには患者記録と薬剤搬送の原本があります。処分した場合、現在の状況も含めて証拠隠滅の経緯として提出します」 声は震えたが、運転手の手は止まった。 蓮が緊急保全申立書の受理番号を読み上げ、警備担当が搬出口を塞ぐ。 倉庫の中には青い箱が十七個並んでいた。 〈三一一〉と書かれた棚だけ、すでに空だ。 端末が震える。 征臣からだった。 〈車を替えた。原本は無事。四十分で着く〉 画面を見たまま息を吐く。その直後、紗英から別の通知が入った。 〈その車には乗らせないで。父の整備工場から出た車です〉 文字が一度で読めず、二度見た。 征臣へ転送する。既読はつかない。 最初の車両トラブルまで、用意された流れに思えた。止まった車から、あらかじめ準備した別の車へ乗せる。「番号を警察へ」 彩花さんがすぐに動く。 蓮は
港湾第七倉庫は、すでに別会社へ売却されていた。 登記上の所有者は榊原財団と無関係の物流会社。役員の一人に、有馬家の元社員がいる。「また名義を挟んでいる」 蓮が路線図と登記簿を並べた。 倉庫の使用記録には、年に一度だけ〈医療機器保管〉。日付は毎年三月十一日だった。 三一一。 母が残した数字は、便名だけでなく、証拠を移す日にも使われている。 今年の三月十一日は過ぎていたが、倉庫の契約終了が二日後に迫っていた。「今夜、動かす可能性があります」 彩花さんの言葉とほぼ同時に、紗英から連絡が届く。 宗一郎の秘書が大型車を手配し、港へ向かったという。 警察は令状を申請中だった。神谷の古い録音だけでは、証拠の所在を示す根拠として時間がかかる。 征臣は、原本の録音機と路線図を自分で提出すると決めた。「秘書ではだめですか」「俺宛てに残された。受領経緯を説明できるのは俺だ」 理屈は通っている。 それでも、神谷の声が耳に残る。 事故として処理されるでしょう。「私も警察本部へ」「君は倉庫へ行ってくれ」「また分けるんですか」 征臣はすぐに返さなかった。「倉庫には、母の記録を見分けられる君が必要だ。俺は原本を提出して合流する」 以前なら、理由を言わず安全な側へ置いたかもしれない。 私は路線図の青い線を指で追い、頷いた。「連絡を切らないでください」 征臣は端末の共有表示を見せる。 路線図を二枚に複製した。一枚は征臣、一枚は私。紙の上では同じ終点へ続いているが、実際には別の車へ乗る。 私は蓮、彩花さん、警備担当と港へ。征臣は警備担当と警察本部へ向かい、相沢へ原本を渡してから合流する。 出発前、征臣が路線図を折り、胸ポケットへ入れた。「着いたら連絡する」 途中でも、と言いかけて、彼の袖をつまんだ。車へ向かいかけた征臣が足を止める。何でもないと言うつもりだったのに、指が離れなかった。「……無
小包は、鷹宮家の旧邸から移された未整理箱に紛れていた。 包装紙は黄ばみ、宛名のインクも薄い。中には小型の録音機と、青い路線図が入っている。 電池は抜かれていた。新しいものを入れると、男の声が流れた。 〈鷹宮征臣様。白鳥菜月さんから、あなたなら娘を覚えていると聞きました〉 神谷の声だった。 〈榊原財団は、患者搬送を慈善事業の会計へ混ぜています。三一一便の原本は、青い路線の終点に保管しました〉 研究棟から港の倉庫まで、地図へ線が引かれている。 〈白鳥清隆氏と有馬家は資金処理に関与しています。全体を指示したのは榊原宗一郎です〉 黒幕の名が、初めて声として残った。 〈私の身に何かあれば、事故として処理されるでしょう。高城和臣氏の車も同じです〉 蓮の息が詰まる。 録音は一度切れ、最後に付け足した声が入る。 〈菜月さんは、娘さんを家から出したいと話していました。あなたが覚えていなくても、銀鈴を見れば分かるそうです〉 征臣は録音機を見たまま動かない。 小包は届いていた。ただ、本人へ渡されなかった。 保管記録には、〈差出人不明・危険物確認済み・本人への引渡し不要〉。口頭指示を出したのは、当時の当主代理だった。「父だ」 征臣の声が低い。 鷹宮家も、榊原との共同病院計画を守るために小包を止めていた。「十年前に見ていれば」 征臣が言いかける。 その続きを否定する言葉は、すぐには出なかった。見ていれば何か変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。どちらも確かめようがない。「今、見つかりました」 言えるのはそれだけだった。 青い線の終点には、港湾第七倉庫と記されている。 征臣は父親へ面会を求めた。「私も行きます」「これは鷹宮家の――」 そこで口が止まる。「……一緒に来てほしい」 鷹宮当主は、小包を覚えていた。「当時、榊原との共同病院計画が進んでいた。差出人も不明だった。息子を巻き込む
映像テープの末尾に、音声だけの区間が残っていた。 画面が暗くなったあとも、録音機は動いていたらしい。最初に聞こえるのは、浅い呼吸だった。 神谷の声が近くで呼びかける。 〈白鳥さん、聞こえますか。今から病院へ移します〉 母が何か答えた。 解析担当者が音量を上げる。 〈澪に、青い箱を〉 〈分かりました〉 〈あの子は、何も知らない。でも、何もできない子ではない〉 歯を食いしばった。涙を止めるためではなく、声を漏らさないためだった。 母は私を外へ出そうとした。弱いと決めていたわけではない。その二つを、私は同じものとして受け取っていた。 〈もし私に何かあれば、青い線を。三一一の先に、全部あります〉 神谷が、分かった、と繰り返す。 次に母が呼んだ名前は、父だった。 〈清隆には、渡さないで〉 一度だけ鈴が鳴る。胸元にある銀鈴と同じ、高く短い音。 神谷の足音が遠ざかり、電話をかける音が続く。 〈救急を止める権限はない〉 〈家族の同意は得た〉 遠くの男の声は、宗一郎の秘書に似ている。 〈本人は同意していない〉 神谷が返した。 何かが倒れ、録音機が床へ落ちる。声が急に近くなった。 〈神谷先生、あなたも家族を守った方がいい〉 新しい声が入る。 父だった。 停止ボタンへ伸ばしかけた手を止める。怒鳴る時より、静かな時の方が冷たかった声。聞き間違えようがない。 〈白鳥さんを病院へ移せば、慈善事業全体が止まります〉 母の呼吸と、事業の言葉が同じ録音に残っている。 音声が終わっても、部屋の誰もすぐには動かなかった。「再生しますか」 解析担当者が聞く。「今は」 声が出ず、水を一口飲んだ。「今は、いいです」 父へ電話をかければ、編集だ、偽物だ、覚えていないと言うだろう。問いただす言葉だけを先に使いたくなかった。「聴聞で流します」 相沢が頷く。 退







